「子ども裁判(ティーン・コート)」のこと

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未成年の犯罪を裁くのに、未成年の裁判官、弁護士、検察官、陪審員らだけで構成される「子ども裁判」(ティーン・コート)で裁いてみてはどうだろう。

何を馬鹿なことを言っているのか、と思う人がいるかも知れないが、世界にはこれを本当に実施している国があるのだ。

次の記事(「市民研サーチライト」にも取り上げている)の初めの部分によれば、その仕組みはおおよそ以下のようになる(地域によって多少やり方は違うようだ)。

In Praise of the Teen Court
Why shouldn’t teenagers get to democratically decide on matters of justice? Teen courts are a fascinating and empowering...

***(以下、仮の翻訳)

未成年者が破壊行為、万引き、薬物所持、喧嘩などの初犯(軽犯罪や軽めの重罪)で逮捕された場合、通常の少年裁判所制度を避け、代わりにティーン・コートの手続きを取るという選択肢が与えられる。ティーン・コートに入るためには罪を認めなければならないが、それが完了すると記録は抹消される。ティーン・コートでは量刑審理がなされる。そこでは陪審員も弁護士もすべて10代の若者だ。検察側の10代の弁護士は、被告人が受けるべき刑について冒頭陳述を行う。弁護人は被告人側の言い分を述べる。被告人は証言台に立ち双方から質問される。最終弁論が行われる。10代の陪審員は審議のために退席し判決を言い渡す。刑の中身は、一定時間の社会奉仕活動とティーン・コートの陪審員として一定回数その職務を果たすこと、で構成される。謝罪の手紙を書くなどの追加要件が課されることもある。裁判所は被告人を投獄する権限は持たない。

***(ここまで)

これは非常に興味深い試みではないだろうか。

詳しく論じるのは控えるが、うまくやれば日本でも導入は可能だろう。

青少年の犯罪の抑止に貢献するだろうし、何より、公共と公正というものにどう自分は向き合えばよいか―そうした意識を若いうちに鍛えることができる、大変有効な機会になると思う。

「子どもは小さな大人ではない」というのは環境健康リスクを考える際によく持ち出されるフレーズだが(生物学的に子どもには大人にない特別の脆弱性・感受性がある)、精神の面からみるとむしろ「子どもは小さな大人である」(大人と同等の精神性を十分に持っている)とみなしていいことが、たくさんあるように思う。この「子ども裁判」の例はそんなことも考えさせる。

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