大学受験日の微笑ましい出来事

思い出話

毎年の大学入試の「共通試験」は1月半ばの土日なので、それを皮切りとする国立私立各校の大学入試はきまって寒い時期となる。風邪も引きやすく、大雪など降ると交通も乱れたりするから、入試をこの寒い時期からなんとか外せないものか……と、毎年同じことを繰り返し思うことになる。

私は、大学受験(とその準備のための受験勉強)に対して愉快な気持ちになったことなど一度としてなく、「あれさえなかったらもっと好きなことを伸び伸び学べたのに……」と悔しい思いしか残らなかったと言っていいのだが、試験の当日に、ある忘れられない楽しい出来事があって、TVに試験会場で受験生が机にずらりと並んでいる姿などが映し出されると、その時のことが思い出されて、苦笑してしまうのだ。

父親の強い要請(圧力?)もあって(付言しておくが、今は亡き私の父は小さな製造業の経営者であって医者のイの字も関係ない)、某国立大の医学部を受験した時のことだ。案の定寒い日で受験生はみなコートや厚手のジャンパーを着ていたと思う。私が入ることになった試験会場は50人ほどが収まる小さめの教室で、試験官から「コートは着たままか、脱いで後ろに置くこと」「机の上には筆記用具と腕時計以外は置いてはいけない」と指示された。試験官が監視のために机と机の間の通路を巡回することになる。通路を挟んで私とは隣になる位置に(たぶん現役の)ある女子の受験生が座っていた。その医学部は「一流難関」だと言われていたから、当時は、女子の受験生がそもそもかなり少なかったようで、その教室の中では、その子ともう一人くらいしかいなかったように思えた。

ちらっとみた感じで、小柄な可愛らしい感じの女の子であることはわかったが、驚いたのは机の上に置いている時計がどう見ても男物、というより、腕時計ではない置き時計のような大きさで、「あれがタイマーでけたたましく鳴ったりしたらえらいことになるだろうな……」とちょっと気になった。本人は全然気にしているふうはないようなのだ。

試験が始まって間もなく、横を試験官が通り過ぎる際に、その女の子が注意されている。「ちょっと君、コートはそんなふうにしないように」「ええっ、あっ、はい……」―その女の子はなんと、自分のコートを折りたたんで座布団にしていたのだ。確かにその方がおしりが温かしい、小柄なその子には好都合だろう。「面白い子だな……」と一瞬目をやって、またすぐに数学の試験問題に向かう。

しばらくすると、その子は、なんとまた試験官に注意されている。「君、受験票でそんなことしないように」「あっ、ダメですか?」―みると、どうも定規が持ち込めないから、その定規の代わりに、(かなり大きいサイズの少し堅めの紙だった)受験票を使ってグラフを描いていたようなのだ。「やるな、この子……」と私は感心してしまったのである。

夢中で試験問題を解かねばならない時間が続いて、気づいてみると、試験が終わって皆がガヤガヤと退散するなかで、その子はどこにやら、姿が見えなくなってしまっていた。

ところが、である。なんと帰りの電車のなかで、座席に座ってふと横を見ると、またしても、通路をはさんで反対側にその子が座っていたのだ。

「あの、僕は試験会場で隣にいた者ですが……」と声をかけようかと何度も強く思ったのだが、その子がずっと窓の外を見て少し憂鬱そうな表情をしていたこと―たぶん思うように試験問題が解けなかったからか―、そして自分もまた、絶対に自信のあった「物理」でミスってしまったから「これはダメだろうな」という気がしていたこと―事実結果は「不合格」だった―、があって、快速特急の30分間をごく近くにいながら同乗していたにもかかわらず、お互い目を見合わせることもなく、そのまま離れ離れになってしまったのだった。

試験会場であんなに面白い振る舞いができるからには、頭もいいけれどきっと際立った個性の持ち主に違いない。あの時一言だけでも声をかけていれば、ひょっとしたらいいお友達になれたかもしれないのに―と、後になってみれば、受験に失敗したことなどよりも、そのことの方が残念だったような気がするのだ。でも、あの小柄な女の子が試験会場で試験官を戸惑わせていた光景がなんとも微笑ましくて、それに遭遇できただけでもラッキーだったと思う。

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