間違いを「隠す」学者

省察

私がもっとも嫌いなことの一つは、学者であるにもかかわらず自分の非(専門家としての判断の間違い)が明らかになった場合に、そのことを自分自身で公表することもなく、まるでそんなことなどなかったかのように、これまで通り「先生」「先生」と崇められる環境でぬくぬくと―いや本当はびくびくしながら―やりすごしていく、そんな学者の身の振り方だ。

「科学者である以上、一度でも論文の捏造といった研究不正に手を染めたら、もう一発アウトだ」(つまり、科学界から追放されるか、自ら研究者を廃業するか、どちらかしかない)と私は思っているが、どんな学者も、政府が組織した委員会や審議会のメンバーになって専門家として助言したり、答申をまとめたりしたことが、政策に反映されて施行されて、そしてそれが、多くの人を苦しめるようなよろしくない、予想外の結果や影響をもたらすことになってしまった、と判明する時が来たならば、それが判明した時点で、「私はなぜこの予想外の事態に思い至れなかったか」を正直に皆の前で語るべきなのだ。それが真理を追究する学者としての、最低限のモラルだろう。

「自分はなぜこの学問に打ち込んでいるのか」という原点に立ち返れば、自分の学問上の間違い・不明・至らなさがはっきりした場合に、それを正直に認め、改めようとすることが、自身の学問を鍛えていくのに、むしろ不可欠であることは、論を待たない。そのまっすぐな気持ちを歪めるのは、やはりカネであり、一度手に入れた権威を失うまいとする保身なのだろう。

ここでは身近な具体例には言及しなが、こうした情けない学者の姿を目にすると、「ああ、嫌だ、嫌だ、あの人は何のために生きているのだろう」と、思わないではいられない。どんなに学識豊かでも―いや本当はそんな学者は思いのほか小粒で見掛け倒しのことが多い―ダメな人間はやっぱりダメなんだと、私はきっぱり割り切るようにしている。

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