『越後奥三面―山に生かされた日々』を観て

映画

「ダムに沈んだ村」が日本全国にいくつあるのか、私は知らない。そのような情報がどこかにまとめられているのかどうかもわからない(ネットで調べた限り、そのようなものはなかった)。

ダムのために村が消えることになっても、それはそれでしかたがないし、「移転」先で村人はなんとか暮らしていけるのではないか―私たちは漠然とそう思うだけで、「消える」前に何がほんとうにそこに存在していたのか、つまり何がほんとうになくなってしまったのか、に想像をめぐらすことなど、めったにないのではないか。想像をしようにも、そんな「僻地」の村など訪れたこともないのだから……。

『越後奥三面―山に生かされた日々』という記録映画がある。故・姫田忠義氏らの「民族文化映像研究所」が1980年から4年をかけて、新潟県の北部(山形県との県境)、朝日連峰の奥地にある奥三面集落―今は奥三面ダムに沈んだ村―の生活を記録した147分の長編ドキュメンタリーである。

淡々とひたすら丁寧に日々の暮らしを映しているだけなのだが、実際にこのような暮らしを営々と続けていた集落が、わずか40年ほど前まであったのだということに、私は驚かされ、打ちのめされてしまった。

山からの恵みを生かすことが暮らしそのものとなっている、そんな暮らしを何百年も―縄文時代からの遺跡もあると言うし、少なくとも田植えは鎌倉時代からなされていた―続けてきた人々。冬には山は深い雪におおわれ、外部からは隔絶される。熊やウサギなどの小動物の狩猟が村人の命を支える。それは、山の神に「戒律を守る」と誓う男たちの仕事だ。春には山は山菜の宝庫となる。学校さえも「ゼンマイ休暇」を出し、家族総出でなされるゼンマイ採りは重要な現金収入源となっている(川を木の小舟で下って川べりに設けた「ゼンマイ小屋」で家族が滞在する)。夏には、かつては広く焼畑が行われ、川ではいろんな仕掛けのもとに、サケやマスやイワナを捕らえる。秋は木の実やキノコ採り、そしてまた狩猟。

こうした営みの随所に織り込まれている、先人たちからの受け継いだ様々な手作りの技術も、例えば、トチノミの保存方法や、熊捕獲の仕掛け、蓑藁の装いの機能性(凍てつく寒さのなかでも、かいた汗を凍らせない)、大木を切り出して作るの丸木舟……など、目を見張らせるものがいくつも出てくる。

狩りや森林や田や畑での作業、食事、そして数々の神事やお祭りなど、村の人々の毎日は自然の日々の移り変わりにひたすら寄り添っていて、一日として同じ日を過ごしてはいないように見える。山の神と「対話」しながら生きること、その対話を怠らないことが、暮らしそのものになっているように見える。

冬場は完全に周りから遮断されるからこそ、集落には独特の知恵と工夫と共同性が生まれる。映画の冒頭で、姫田氏がナレーションで「(奥三面から)学ぶ」という言い方をしていたが、「オソ場(山猟)、ドォ場(川漁)、スゲ場(採草)の権利」がまさしくコモンズとして大切にされてきたことの意義を、後世に伝えたかったのではないか。

大都会であれ、地方都市であれ、今の日本の都会に住む者には、もう想像することさえ難しい、暮らしぶりだと言えるだろうか。

でも、この村で暮らす人々は、「ここでしか生きられない」「他の生活は考えられない」「昔ながらの生活を続けていいくことが幸せなのだ」と、何の不満や負い目を感じることなく、皆が思っているのではないか―そんなふうに見えるのだ。それだからこそ、村が消えてしまうという現実が村人にどう突き刺さっているかを思うと、とても苦しくなる。ある村人が姫田氏に「こうして映像を残してもいったい何の役に立つのか?」と言葉を漏らしていたが、私たちはそれに何と答えればいいのか。

私たち都会に住む人間が、この奥三面のような、何百年も営々と淡々と存続してきた村落を、いくつもいくつも潰してきた、という事実は極めて重い。その重みを私たちが担っていけるのかどうか。

ちなみに、現在のダムに沈んでしまった奥三面の姿がこちらに映像としてアップされている。

この作品のことを私に教えてくださったSさんに、心から感謝します。

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