電車内奇譚その4

生活

体操着から制服に着替える(女子高生集団)、けっこう混んできているのに平気で座席に身を横たえて爆睡する(20代とおぼしき男)、ランドセルを脇にデンと置き絵本を広げて読んでいる子どもに「ちょっとここ座るからどけて」というと恐ろしい目つきでこちらを睨み嫌そうにする(小学校低学年女子)……と、電車内で唖然とさせられる光景を目にすることはいろいろあった。ただ、これらに類したことは、誰もが1つや2つは経験しているだろう。

だが次に記すような経験をした人は、1000万人に一人もいないのではないか。

20年ほど前からほぼ毎日乗車している東横線。10年ほど前の5月のある日、澁谷に向かう車内での出来事である。

朝10時くらいで、ほんの少し汗ばむ程度の陽気で、私がいた車両には立っている人が10名ほどといった混みようだったと思う。私は座って本を読んでいた。

なにやら目の前に立っている男がゴソゴソしている。ふと目を上げると、その40歳くらいの背の低い小太りの男は、いかにも「暑い」という感じで、上着を脱いでワイシャツのボタンを外しているところだった。何だかひどく汗をかいている。

目を文庫本のページ戻して読み続けていると、何やらまたゴソゴソしていて、目をやると下着のシャツも脱ごうとしている。この時点ですでに、妙な感じもしたが、じっとそいつを見つめるわけにもいかず、再び本に目をやる。

ところが、本に目を向けていても自分の視野には、その男が尋常ならざる動作をしているのが目に入ってきた。ベルトを外して、ズボンとパンツを降ろしている!

さすがに驚愕した私は、「おい、ちょっと!」と声を上げた。が、その瞬間、その全裸の男は私の顔に向かって両手を突き出し、身体を傾けるようにして襲いかかってきた。メガネが飛ばされ、私も無我夢中で「ウヮー」を大声をあげてその男を振り払おうともがいた。襲いかかられた時の力が意外に弱かったことが幸いだったが、私に押し返されたその男は全裸のまま、まるで丸太が倒れるようにドシンと床に倒れた。

車両内の乗客たちが、私のあげた叫び声でこちらを振り向き、身体を硬直させたまま全裸で床に倒れた男を目にして、それこそ叫びともどよめきともつかない声を発しながら、全員が車両の端っこに逃げていく。座席には私だけが取り残され、件の男は目を開いたまま横たわってまったく動かない。車両の両脇に肩を寄せて立ちすくんだ乗客たちは、理解不能の光景に慄いているのか、誰も声をあげない。ただ、誰か一人、機転をきかせて、緊急停止ボタンを押した。

幸い自由が丘駅のすぐ手前だったので、電車はそのまま駅に停車した。緊急停止の知らせを受けて、二人の駅員が駆けつけてきた。その二人が、床でのびている全裸の男を目にした瞬間、「ウヮー」と絶叫したが、さすがにその直後には「大丈夫ですか」と横たわる男に声がけしていた。

私はその男の一連の様子から、男は薬物中毒なのだろうと判断した。被害者でもあり目撃者でもあるのは唯一私だけだったようだが、ここは関わってしまうとやっかいなことになる、と判断し、騒然とする車内からスッと抜け出して、隣に停まっていて発車直前だった急行に飛び乗り、逃げおおせた。

男に襲われたのは確かに下手をすると命にかかわるような事態だったかも知れず、ぞっとするのだが、車両内の誰一人として私に「大丈夫ですか」と声をかけてくれなかったこともショックだった。逆に私は、その男を「死」に至らしめてしまった犯人と思われたのかもしれない。全裸で微動だにしないで横たわる人をいきなり目にしたのだから、それも無理はないか、とも思うのだが。

ただ、この話を今まで数人の人に語って聞かせたことがあるが、聞いた人すべてが、「全裸」のくだりになるとクスクスと笑い出す。「大変だったね」と労われつつ、ニヤニヤされてしまい、なんとも複雑気持ちに、私はなるのだ。

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