電車内奇譚その2

生活

市民科学研究室の事務所が文京区千駄木にあった頃の話。

私は原稿に締め切り間際に、始発の電車に乗って事務所に向かい、そこで一気に原稿を仕上げる、ということがよくある。関連する資料が事務所に揃っているし、始発の電車は空いているので、集中して草稿のメモを作るのに好適だからだ。

ある日、始発から間もない午前5時台の千代田線で湯島駅に着いた時のこと。一両先の車両で、ドタンという物音と「ウォー」という大きな声がしたので、「何事か?」と思ってその方を向いたら、ガラガラのその車両に乗り込んできた図体の大きな男と目があった。

私は集中が乱さえるのが嫌いで、突然かかってくる電話にも機嫌の悪い声で対応したりする癖があるが、その時もキッと鋭い視線を向けたのかもしれない。その大男は、「何を睨んでやがる!」と50メートルも離れていそうな先から、私のいる車両に向かってズンズンと進んでくる。横に、明らかに接客業で朝帰りのその男に付き合って連れ立ってきたアジア系の小柄な女性がいて、たどたどしい日本語で「アンタ、ヤメナヨ……」とオロオロしながらその男を制止しようとしている。しかしその男は怒りが収まらないらしく、足を止めない。

私がいる車両も私一人で、電車はすでに次の根津駅に向かっている。その男はとうとう私の前まで来て、「なんとか言えよ、コラ!」と怒号をあげて絡んでくる。酔っ払って多少ふらついているな、ということと、声の調子から虚勢をはっている感じが多少したことから、なんとか逃げ切れるかもしれない、と踏んで、根津駅で止まるまで我慢した。相変わらず大声を出しながら私の胸ぐらをつかんで引き上るものの、「そんなことしない方がいいと思いますよ」とはっきり言った私に対して、殴ってこようとはしない。女は相変わらず「ヤメナヨー」を繰り返している。

根津駅で止まった瞬間に、「駅員さーん」と今度は私が大声をあげると、この車内の異変に気づいたのか、車掌と駅員が走って近づいてくる。私は男の手をふりほどいて、車掌に駆け寄り手短に事情を話す。根津駅の駅員も到着して、「とにかく一旦降りてください」と男に言うが、その男はなかなか言うことを聞かず、駅員につっかかっている。加勢するためにやってきたもう一人の駅員と車掌の三人ががりでなんとかその男(と女)を降ろし、説得して落ち着かせようとする。その間、地下鉄は5分ほど根津駅に停車したままとなり、さすがに他の車輌に乗っていた数名の乗客らも「何事か?」とホームに降り立ってこちらに目を向けている。

私は駅員に「もし必要だったら連絡ください」と名刺を渡し、やっと動き始めた電車に乗って、千駄木駅に向かった。暴行事件とならなかったのが幸いの、早朝の出来事だった。

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