人は自分の死をどこまで意識して、自分の生を自分で律することができるものなのだろう?
一種の思考実験として、私は時々、「あと〇〇日の寿命だと宣告された場合に、(今の)自分はどうするだろうか」と想像してみることがある。
あと10日。これはもうパニックしかないように思う。近しい人に別れの言葉をどう残すかを考えるだけで精一杯。やり残したこと―楽しい思いができたかもしれない諸々の体験(読書や旅行や交友や仕事上の業績などありとあらゆるもの)ができないまま死んでいくことに悶々とするだけで終わりそうな気がする。
あと100日。これは恐ろしい。100日でやり遂げることができそうなことが―たとえ身体が相当に不自由であったとしても気力が残ってさえいれば―いくつかりそうな気がするが、実際にはそのことを選定し100日以内に、なんとか世に残せる「形」にしたり、自分のなかで大いなる満足を得たりするところにまで行き着くようにすることは、極めて難しいだろう。迫る死期に打ち震えつつ、取るものも手につかない、という状態に、どう打ち克っていくか―そのことだけで大半の時間を消耗のうちに過ごしてしまいそうで、恐ろしいのだ。
あと1000日。私が死期の告知として何とか慌てふためかずに受け入れて、備えていけそうな感じがするのが、この「1000日」である。1000日、すなわち2年半少しが残されているとすれば、やり遂げたいことを1つか2つかに絞り―他人が介在したり他人とやりとりしたりする事柄はなくてあくまで自分だけでなんとか仕上げられる事柄で―、それをやり遂げる計画を立てて、力の及ぶ限りそれに集中してやれるとこまでやる、というストイックさを発揮するだろうと思う。もちろん、ほんとうにそんなふうにできるかどうはわからないが、少なくとも心構えはそうなると思う。
あと10000日。誰でもそうだろうが、「20年ほど先に訪れる自分の死」は、あくまで観念上の事柄にとどまり、なんら今の自分を変えたりはしないのではないか。つまりこれはもう、あってないようなレベルの「自分の死」なのだ。
よって、死を予感するのなら、望むらくは「あと1000日」の余裕(?)に恵まれるようであってほしい。「今日が自分の人生最後の日であるかのごとく、精一杯今日を生きる」―そんな生き方が理想であるとわかってはいても、その境地にはとても至りそうにない自分であることを自覚しているだけに、せめて「1000日」の猶予くらいは与えてもらいたいな、と思うのだ。