「〇〇はバカだ」言説の考察

省察

「◯◯はバカだ」とある属性を持つ人(もしくはそうした人の集団)を罵る(あるいは批判する)場合に、その言説がどういう特質をもっているかを、少し詳しく検討してみよう。「バカ」という言葉を、それ以外の非難めいた言葉に置き換えてもよい。

この言い方には隠れた前提があって、それは、この言葉を発する本人は「自分はバカではない」と思っている、ということ。そのことの立証はどこでなされているのか。もちろんこの言い方だけからはその保証は得られない。相手の落ち度を見つけることは、自分にその同じ落ち度がないということの保証にならないからだ。

ただ、相手のバカさ加減を指摘することは、一般的に通用するだろう「△△という行為や発言は愚かである」という判断水準があって、それに則って行っている場合と、誰もまだ気づいてはいないが改めて指摘されると納得してしまうだろう場合とがありそうだ。

前者の場合、批判を発する本人が指弾する相手より「優位」に立っていると周りから認識されることは特になく、本人が優位さを匂わせることが変に強ければ、逆に「たいしたことを言っているわけではないのに、何様のつもり?」とその増長ぶりが咎められたりする。後者の場合、「鋭い指摘だ」「立派なことを言っている」ととられて、その批判者の優位性に賛同する人が多く出てきたりする。その賛同が大きくなることで、必ずしも「優位性の立証」がなされていないにもかかわらず、本人も、そして賛同者も、「あんな◯◯のようなバカと自分は違うんだ」との思いを強めることになる。そこには相手を見下すことで、(実際はまったく偉くなってなんかいないのに)自分が偉くなったように感じるという、勘違いのメカニズムが往々にして働く。

批判は大事だが、それが何に立脚していているか―どんな事実や証拠と、そこから得られるいかなる推論に基づいているか―を、常に自分で検証することで、今述べたような、「優位性の罠」に陥らずにすむと言えるのではないか。何と何をどう比較するのがまっとうなのか、自分はそのなかでどういう位置にいることになるのかを把握して、相手に対する批判をなすべきだ、ということになるだろう。

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