「邦楽最前線」を聴いて

音楽

昨日会場に足を運んだ公演「邦楽最前線」が大変素晴らしかったので、その感想を記したいと思います。

私が邦楽にふれたのは、いわゆるクラシック音楽の分野の「現代音楽」の中に、邦楽器を使った曲があったりしたことや、作曲家の三木稔の作品がTVで演奏されるのをみて心惹かれたことがきかっけになっています。ご他聞に漏れず、琴や尺八はとにかく古めかしい楽器で、それを習う人は伝統芸能を守ろうとする、細々と続いているらしい特別な家系の人たち……といったステレオタイプな漠然とした思いこみがあったのですが、大学時代に斬新な曲の実演にふれたことで、「機会があったらいろいろ聴いてみよう」という気になったのです。

今も続いていると思われる、NHKFMの30分番組「邦楽のひととき」(月~金)が、月に1回か2回、「現代邦楽」を取り上げていましたから、それを録音して時々聴いたり、二十絃箏で有名な野坂恵子(現在は野坂操壽と改名)やジャズの演奏でも知られる尺八演奏家のジョン・海山・ネプチューンのコンサートに出かけたりしました。しかし、今思えば、そうした関心の持ち方は、やや乱暴にまとめてしまうと「(普遍的な)西洋音楽が持つ表現の幅を広げるために、邦楽器の音色や奏法を生かした作曲や演奏がなされている」というとらえ方の上にあるもので、日本の伝統音楽が西洋音楽との出会いによってどう変容しているのか、そこから何か新しい普遍的なものが生まれているのかという視点はほとんどなかったように思います。もちろん、今でも、邦楽に対する知識は西洋音楽に対する知識と比べて、話にならないくらいわずかなものしか私は持っていないので、大局的なとらえ方ができるわけではまったくないのですが。

昨日の公演で痛感させられたのは、邦楽がきわめて創造的な芸術活動たりえる何かを内に秘めているのではないか、という考えてみればあたりまえの認識です。西洋的なメロディーラインを感じさせつつも、間の取り方や音色に作曲者の個性を著しく感じさせるもの(中能島作品、沢井作品)、古来の定番曲を演奏者自ら開発した超絶的な奏法を交えて宇宙的な響きと広がりを感じさせる曲に変化させてしまうもの(中村明一の演奏)、仏教や日本中世の宗教的(宮中のあるいは民衆の)テクストから心象や情感を喚起させるべく邦楽器の音や人の声による歌が活用されているように思えるもの(広瀬作品、肥後作品)、といった作品を間近で聴きすすめるうちに、邦楽の表現のもつ可能性の大きさを感知することになった、と言えばよいでしょうか。

とりわけ感動的で、邦楽・洋楽の分け隔てを超えて、音楽の力をまざまざと伝えてくれたのが「草の祈り」(福原徹・作曲)でした。男性独唱(能の謡の様式で歌われます)、笛(3人)と尺八(1人)によって奏でられる25分ほどの曲です。作詞は蓬莱泰三。この人の作品には、児童合唱の『チコタン』『日曜日』(南安雄・作曲)や『オデコのこいつ』(三善晃・作曲)があり、ユーモラスでありながら死や罪の意味を鋭く問う、心に突き刺さってくる恐ろしい詩を書く人だな、という印象がありました(ちなみに私は三善晃の『オデコのこいつ』という怖い作品が大変好きで、楽譜を買って何度も一人で口ずさみましたから、はじめから終わりまでそらで歌えます。ピアノ伴奏部分は難しすぎて弾けませんが。さらにちなみに、三善晃の激烈な作品『レクイエム』(1972)が最近、35年の時を経てようやくCD化されたしたね。また、タイトルは忘れましたが、ラジオドラマでも蓬莱泰三が脚本を書いた非常に怖い思いをさせられた作品があったと思います)。ですから今回は密かな期待を抱いて臨んだのですが、その期待は見事すぎるくらいにかなえられたと言えるでしょう。

「風」「雨」「星」と題された3部の構成の「草の祈り」は、戦場で倒れその肉が朽ち果て土に還ろうとしている若い兵士の、“心の語り”です。長い詩で、一部だけを引用するのは気がひけるのでいたしませんが、この上なくやさしい言葉を使いながら、痛切に、深く静かに、戦争で「殺すこと」「殺されること」を告発しています。人を殺した自分が他の人に殺され、一人、野のはずれで雨降りしきる中で朽ちてゆく--その若い兵士の魂が、自らの肉体が土に還り命の芽生える元となることに、許しと救いを求める、「草の祈り」となって。

選び抜かれた数少ない音が、あるときは風を、あるときは雨を、あるときは叫びを、あるときは光を表徴する中で、低く芯のすわった謡が強く張った糸のような緊張をたたえて奏でられます。その謡のかすかな音調の変化が、「静の中の動」よろしく詩に託された兵士の思いを深く鋭くこちらに伝えるのです。会場にいた人々皆が、この25分間を息をのむような張り詰めた感じで音楽に取り込まれていたことでしょう。曲が終わって頬の涙をぬぐう人を私は何人も見ました。

この曲は幸いCDで聴くことができるようですが、やはり、実演で観ることができるとよいでしょうね。私は、幸運にも謡の小早川氏のほぼ目の前に座っていて、その深い声に全身がひたされた感じでした。

各曲の合間に的確な解説をほどこしてくださった小島美子氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)にも感謝しなければなりません。蓬莱氏もほんの少しだけ登壇され、はじめてお姿を拝見することができました。戦死されたいとこのお兄さんをおもって作詞をすすめられたとのこと。一緒に観ていた連れ合いに「蓬莱さんって、風貌が金子光晴に似ているね」と思わず言ってしまったのですが、そう言ってすぐさま、二人の詩風がどこか相通じるものがあることに思い至ったのは、連想が過ぎるでしょうか。

この実り多い公演に私をめぐりあわせてくださった、友人の鈴木綾さんに感謝いたします。

【2008年 01月 26日、旧ブログより】

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