科学的態度・生き方、というもの

省察

科学的態度・生き方、というものがありそうだ。

それは科学の専門家であるかどうか、高度な科学の素養があるかどうか、にはほとんど関係がないように思える。

基本は、「どんな他人の意見・見解・学説……も鵜呑みにしない、疑ってかかる」ということ(整合的説明への全方位の希求、懐疑的態度の貫徹)なのだが、これを思考と生活のあらゆる面で貫くことは、おそらく誰にもできない。「○○はなぜ△△なのか?」という問いを繰り返していけば、絶対的な確からしさを持った事象などこの世の中にはほどんどない、という事態に逢着するからであり、「言葉による思考(陳述の水準では何事に対してもとことん突き詰めていける)の世界」と、「(条理を尽くした理由があってすべてがが動いているわけではない)この世界のなかで自分がまさに今生きている現実」との間に、どうして埋めがたい隙間があって、「科学的に説明できる」「科学的に納得できる」では覆い切れない多々の事象を抱えつつ、私たちは生きていかざるを得ないからだ。例えば端的に言って、恋愛は誰にとっても人生の大きな出来事だと思うが、その成立や成就や失敗……を「科学的」に説明できるか?「なぜあなたは〇〇さんが好きなのか」を科学で説明できるか?

では科学研究以外の領域において、この懐疑的態度の貫徹を全面的に放棄することになるかといえば、そんなことはまったくない。それとなく維持・共有されている「常識」の中にも、法律のなかにも、普段のコミュニケーションにおいても、適度な綿密さにおいて合理性をお互いに確保し尊重していくのが、あたりまえになっている。問題は、その平均的なレベルを超えて、「いったい、〇〇は本当に△△なのか」という疑問や批判意識を抱いた際に、それをどこまで維持し、検証に向けて自ら動くか、というあたりだ。ここがまさに「科学的態度・生き方」に関わるところだ。

専門領域に精通した科学者であっても、そこから一歩はみ出ると、およそ「科学性」の片鱗も感じられないような生き方・考え方を平気でとれてしまう者が決して稀ではない。いわゆる運動家もまたしかり。自分の主張に都合の良いデータだけをかき集めて、不都合なデータには目もくれない、という「科学性」からは程遠い姿勢も、しばしば見受けられる。

では、科学的態度・生き方はいかにして可能なのか。

それは、「保留」(「正しいかどうかは今はまだわからないので、YesともNoとも言わず、できるだけ証拠集めに努める」)と「仮説」(「(自分なりの検討のもとに現時点では最善のものとみなして)仮に○○が正しいと受け入れて、それに基づいて判断・行動する」)を、何事に対しても保つことだろう。もちろん、反証が出てくればすぐに自分の考えを改める。様々な事象や言説と、自分との「距離」を意識しながら、でも決して無視や無関心に自分を委ねることなく、その事象や言説の真実性を自分のなかで問い続けながら生きる姿勢、と言えるかも知れない。自分の人生そのものを対象に―それは「世界」という巨大で複雑なうごめきをするもののなかでのあくまで個別の事例に過ぎないのではあるが―そこに何らかの普遍性のある「意味づけ」を見出していこうとすること。言い換えるなら、自分の人生を一つの実験のプロセスとしてとらえる態度、とも言えるだろう。

実験としての人生、試みとして判断・選択・行動……「科学的であること」の意義は、どうもそうしたところに私はあるように思えるのだが、どうだろう。

タイトルとURLをコピーしました