満員電車に乗れない人

省察

日本人の大人のほぼすべての人が経験したことがあって、その酷さに嫌気がさすものの、「誰もが我慢しているのだから……」と我慢して、あえて文句を言わない―そんな事象の典型的なものの一つが通勤ラッシュ時の満員電車であろう。平日の毎晩毎夕1時間ほどもこれに耐えている人が、おそらく1千万人ほどもいることを思うと、気が遠くなりそうな事態ではある。

私が事務所で仕事を始めるのを午前10時からにしているのも、この満員電車を避けるためだが、それでも年に10回や20回はそれに遭遇し、ちょっとした恐怖を覚えつつも、なんとかやり過ごすようにしている。

ただ、世の中にはそんな人ばかりではなくて、これには絶対に耐えることができないから、仕事を辞めて別に道に進むことにした人がいる―と聞けば、あなたはどう思うだろうか?

私は一人だけ、しみじみとした気持ちでそう語ってくれた人を知っている。

私としては大変めずらしいことに、まったく面識のなかった人に、いきなり連絡をとってその人の自宅に伺い、3時間ほども語り合った、ある画家がその人である。

たまたま手にした、調布市で開かれる教会主催の無料のクリスマスコンサートのちらしに、ハープで奏でられるちょっとめずらしい曲が演目に入っていたので出かけたのだが、そこで手にしたプログラムにあった素敵なイラスト(配色と図柄がなんとも気品があって親しみやすい感じの)がひどく気に入ってしまった。ちょうど市民科学研究室の紹介パンフを作ろうとしていて、誰かいいデザイナーはいないものか、と思っていたところだったので、主催者にお願いして、そのイラストを書いた人の連絡先を教えてもらった。

連絡すると、同じく調布市に住んでいる男性で、快く「いらしてください」と返事をいただいた。声の感じから私よりちょっと年上の人かな、と思ったが、会ってみると、その通りで、アパートで一人暮らしをされていた。

「市民科学研究室ってどんなことをしているの?」から始まって、イラストがどう気に入ったか、それぞれどんなふうに生活しているか……そして話はどんどん深まって、人生で何が大切だと思うか、みたいな話にまでなった。絵を描くことを生業にしている人だとわかったので、おいそれとはパンフのデザインを無料でお願いするわけにいかず、結局その話はしなかったのだが、聞いた話で最も印象的だったのは、満員電車が苦痛で心の健康を保てなくなり、会社を辞め、いろいろ模索する中で、絵を描く道にすすんだ、ということだった(結婚に至る前に、最愛の女性を亡くされたらしいことも関係しているようにも思えた)。満員電車に耐えている人たちのことを指して、決してその人たちのことを侮る調子ではなく、「僕はほんとうにあの人たちのように強くはなれないんだよ」とおっしゃったことが心に突き刺さった。

たぶんこの画家さんのような人は、少なからずいるのではないか―私たちにそうした人が見えないだけなのだろうと思う。

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