およそどのような宗教でも「祈り」は必ずあるように思われるが、どうだろうか?
そして「祈り」とはいったい、どういう意味を持つ行為なのだろうか?
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は唯一神に祈りを捧げる、代表的な有神論の宗教だ。この場合、祈りは神との意思疎通をはかるためのものだと、解釈できるように思う。でも、その意思疎通は、卑俗な取り方かもしれないが、「許しを請う」「助けを求める」といったものだとして、もしそれが「自分のため」であるなら、それらの多くに対して、「あなた、それを神様に望むのはちょっと違っていませんか?」「ほんとうにそう思うのならもっと確実に許してくれる、助けてくれる現実の対象に向かって、なすべきことではないですか?」「それが見当たらない、無理そうだ、と思うから、神に祈る、とういうのでは、なんだかご都合主義に過ぎませんか?」……といった批判を浴びせることもできるように思う。「大学入試に合格しますように」「あの人と結ばれますように(結婚できますように)」と祈ることは、自己暗示によって多少は実現可能性を高める効果が生じるかもしれないが、まあ、それは偽薬効果と似たもので、何も神様を持ち出さなくてもよい。ジンクスや縁起担ぎと同じだろう。
でも「自分のため」は何も「自分の利益」「自分にとっての好都合」を指す場合だけではない。過去に犯した罪や過ちで、償っても償いきれないものを、人は抱えることが少なくない。また神様が示す範例的な生き方に自身を照らして、なんとか自分もそれに倣っていきたい、今より少しでも精神的にまっとうな気高い人間になりたい、といった願望を持つことも稀ではない。これもまた「自分のため」に祈る、という範疇に入るもののようにみえるが、先の「自分の利益」のために祈ることとは、大きな違いがある、と言えるだろう。
そして、「他人のため」に祈る、がある。「◯◯を許してあげてください」「〇〇を助けてあげてください」は、一言で言うなら、不幸である他人を少しでも幸せにしたい、自分にそのことに寄与できる力を持てるようになりたい(そう努力したい)、という意思を神様に告げることで、その意思をより確かなものにする、ということではないだろうか。
(以上、宗教についてまったくの素人である者の勝手な思い)
では、非有神論の宗教である仏教ではどうなのだろう。神も、創造主のような存在も持たない場合に、誰に向かって何を祈ることになるのだろうか? 上で述べた「ご利益」志向の祈りは、仏教ではどう解釈されるのだろう? そしてそうした志向ではない祈りは?
少しづつ勉強しながら、こうしたことを今後も考えてみたいと思っている。