戦争防止の究極の方法

省察

近代以降の戦争の多くは国家が行うものであり―民族や宗教の対立による内乱や紛争も少なくはないが―兵士もほとんどの場合国家による徴兵である(最近はビジネスとしての傭兵も増えているが)。なので、戦争を拡大させない確実な手立ての一つは、国民一丸となっての良心的兵役拒否であろう。もちろん、徴兵がなくても、職業軍人によって担われる軍隊があれば、それで戦争は起こせる。ただ、徴兵なしに戦争を続けることは非常に難しいだろう。

しかし実際は、「国を守る」ために国が武力行使に踏み切るまでに至るようなら、その時までにすでに国民の戦意が高揚し(高揚させられ)、兵役拒否を貫ける者はごく少数になってしまっているだろう。

こうした事情を考えると、武力行使を可能な限り回避できるように相手国らと交渉していくのが政治家の使命であり、そのような見識と手腕を持った政治家が選ばれること―逆に言うと「国を守るための軍備拡張」を安易に唱える政治家を選ばないこと、が国民の責務とも言えるだろう。「若者を戦争を駆り出させようとする政治家は、自らが率先して尖兵となって戦争に赴け」(「あんたが行くのなら、私も行ってやるよ」)―と、堂々と唱える国民が多数を占めなければならない、ということだ。

でもおそらくそうした声は、軍事的緊張が高まれば高まるほど、メディアでも、大学でも、公共機関の諸々でも、あろうことか一般の国民自身の多くが手を貸すかたちで、封殺されていくだろう。そしていよいよ、「私」が戦争に駆り出されることになる。そうなれば、もう私には残された選択肢はないのか?

いや、そうではないだろう。「戦争で人を殺すくらいなら、自分が死んだほうがましだ」という思想を貫くという選択肢があるではないか。じつはこれが私が長年心のなかで反芻してきた「戦争防止の究極の方法」だ。幸い、この歳までこの究極の選択を迫られることはなかったが、この先はわからない、と思ってはいる。本当にこの私がその選択を貫けるかどうか、絶対の自信があるわけではない。そうありたいと強く願っているけれど。ただ、じつは、できるなら自分もそうありたい、と思っている人は決してごく少数、というわけではないのではないか―と私は想像していて、そこにある種の希望が見い出せる、と感じている。

最近ひょんなことから手にすることになったある古本で(『二十世紀に希望を持つための読書館内』筑摩書房2000年)、その一編に哲学者の鶴見俊輔の文章があり、そこに次のような一節があった(213ページ)。自殺したある少年が遺したある詩集を、自分(鶴見)の息子が読んで、父親である自分とやりとりする場面、である。

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「おとうさん、自殺してもいいのか」
と息子は私にたずねた。
「いい。こういうときだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令されたときに、殺したくない、と思ったら、その命令を出した人を殺すか、そうでなければ自殺しろ」
これは、戦争の中にいたときに、私が考えていた決断の方向だ。

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もちろん、鶴見俊輔ほどの強い決断を持てる人は多くはないだろう。でも、このような言葉を心に刻んでおくことは、誰にとってもとても大切だ、と私は思う。

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