「マインドフルネス」的なケアについて

科学と社会

「マインドフルネス」とか「セルフ・コンパッション」といった(英語から来る)カタカナ語で表現される手法が、心理学を超えて、医療的なケアや、様々な助け合いや支え合いの促進を目的とした活動に取り込まれるようになってきている―というのは大まかすぎて間違っているかもしれないが、なんとなくそうした趨勢が広がってきているように思える。

このような、心理学的な知見をベースにした、グループケア的なアプローチが、「マインドフルネス」という言葉が流行り始めた20年ほど前くらいから、公衆衛生分野でもいろいろな形で注目されるようになってきているように、私は感じている。

瞑想やヨガ、そして鍼灸などの東洋医学を取り入れつつ、患者同士のコミュニケーションの場を設けて、1対1の医者・患者の治療だけでなく、集団的に対話しながらリラクゼーションをはかっていく、というやり方、と言えばいいのだろうか。

そのことを専門にする医者や宗教者やNPOのような団体のスタッフといった人たちも、マスコミやネットにも登場するようになり、人々の「癒やし」を求める気持ちを喚起して、それに呼応する活動への参加を呼びかけている。そうした姿を目にすることが多くなったと私は感じている。

こうした活動で、誰もが気になるのは(でもなかなかはっきりとは言えないのが)、

(1)今でも社会問題になっている、いくつかの宗教法人、自己啓発セミナー、ネットワークビジネスなどの「信じさせて儲ける」活動と同じなのではないか。

(2)「治った気になる」効果はあるとしても、やはり、全体としてみると、「偽薬効果」とたいして変わらないものではないのか。場合によっては「集団催眠的」効果が生じていると思われるが、そのことに十分な科学的メスを入れてはいないのではないか。

(3)人は権威に弱い。こうした活動の指導者たちは、得てして高学歴や有名人との付き合いなどの指導歴を振りかざす傾向があり、実際にはその業績は客観的に評価し難いものが多いにもかかわらず、カリスマ的にもてはやされていく人が少なくない。これはまともなことなのか。

といったあたりだろう。

「あなたはこうした活動に参加することに対して何かアドバイスできることはあるか」といった相談を時々受けることがある。以下にその考えを記してみる。

まず、病気を治す、ことと、症状を緩和する(生活をしやすくする)を区別してとらえておかねばならない。こうしたグループケア的なアプローチは、患者のQOLをどう改善するかに焦点をあてていて、治療ではない。またもちろん、その病気を引き起こす原因となっている事象自体を問題にするわけでもない。環境汚染や公害などの「被害」をもたらす「加害」については、そもそも言及しないし、関わりを持つこともない。

上記の(1)から(3)のような疑念を持ちつつ―つまり自分なりに納得できない場合は直ぐにその活動から離れることができるように―このグループでの体験を、部外者に(つまり体験などしていない人で、これまで普通につきあってきた連れ合い、友人、知人ら)に話して、議論してみる、という機会をきちんと持ち続けて欲しい。それができるのなら、こうしたグループに参加してみるのもいいのではないか、と思える。これまでの医学的な治療で抜け落ちていたかもしれない「病との向き方」を自分でとらえなおすよい機会になる可能性がないとは言えないからだ。

心理学的な手法だからといって、その効果をきちんとした方法で評価できないとしたら、まずは疑ってかかるのが当然だと思える。比較検証できるデータをちゃんと出しているか。その効果を客観的に裏付ける証拠をどれだけ出しているか。はやりそのことを抜きにしては、「信じるものは救われる」という原理だけの世界になってしまう。それはよろしくない。

現代の医学で十分に対処できない(とみなされることが多い)病気に苦しんでいる人は多い。例えば、アトピー性皮膚炎や過敏症で苦しむ人が、こうした心理学的なケアのグループ活動に加わるかどうかは、最終的にはその人が判断するほかない。ただ、当然のことながら、その活動が、高額の「支払い」を強いるようなら、初めから関わりを持たないことが大事なのではないかと、私は思っている。

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