日本の大学の魅力が、全体的にみて、どんどん低下してきているのではないか。
博士課程に進む人が減り、海外の一流大学の大学院へ留学する学生も減ってきているらしい。その一方で、優秀な高校生は日本の大学を「捨てて」海外の大学を目指す者が増えてきている、とも聞く。こんな傾向が続けば、科学技術面での日本からの独創的な貢献はどんどん影を潜め、ノーベル賞受賞者の輩出どころではなくなるだろう。
「科学の研究が好きでそれを続けていきたいけれど、安定した身分や収入を保証されないので、諦めざるを得ない」「大学にいても、予算が減らされ、研究以外の業務が増えて、自由に研究に打ち込むことが難しくなっている」……といった悲痛な声が、大学院重点化や国立大学の法人化以降、多く聞かれるようになったように思うし、そうしたことを示す客観的なデータもいくつもあるとするなら、これはもう、結果として学生や研究者の「質の低下」を必然的にもたらしてしまう、文科省の大学運営の「政策の失敗」とみなすべきものであろう。
どう政策を抜本的に改めるべきか。研究者のみならず、学問を愛好し、若者の将来を憂う一般の市民も加わって、大いに議論を交わしていかねばならないことではあるけれど、ここでは、私なりに、どうしてもこれだけは譲れないだろうという事柄を、荒っぽく三つほどスケッチしておきたいと思う。
(1)限りある予算をどこにどう使うかは、一律の原理で決められるものではないが、少なくとも大学の研究者として社会に容認される役割を担っている者なら、研究費の最低額は保証されなければならない。例えば、人文社会科学系なら一人あたり年間100万円、自然科学工学系なら年間200万円ほど。大学院に進学する者には無条件に必要最小限の生活費を全額支給する(月額15万円程度だろうか)。
(2)大学の数自体を全体で今の半数以下にする必要があると思われる。大学は「教育」と「研究」の部門を分離し、現在ある大学のかなりのものを「教育」に特化させ、そこでは大学院を設けない。入試は定員枠を設けて、2年から4年をかけてじっくり多分野の「市民的教養」が学べるようにする。職業的技能の習得は、「専門学校」に任せ、大学はそれにはタッチしない。一方、「研究」に特化する大学は、定員枠を設けないかわりに(研究の道に身を投じたいという意欲のある者は誰でも受け入れる)、半年に1回ほど極めて厳しい面接を課し、少数精鋭の学生だけが残れるようにする。学年が上がるごとに返済義務のない奨学金の支給を増やし、4年生になった者はほぼ全員が大学院に進むことになる。大学院に進んだ者はほぼ全員、研究職に就くことになる。
(3)「教育」の成果、「研究」の成果を評価して、(最低ラインが保証された上での)その評価に応じた給与や研究費の「上乗せ」分を決めることになるが、それは短期的な成果主義の物差しで測るのではなく、関心の高い一般市民や、評価対象となる分野とは異なった分野の研究者も交えた「評価会議」―毎年自ら志願する候補者から無作為抽出で選ばれて大学ごとに設けられる―が、その教育者や研究者の教育や研究に対する取り組みを、その人自身が口頭でプレゼンするのを聞いた上で、合議して決める(意欲が欠如し、能力も磨いていないと判断される研究者には大学を辞めてもらう:研究不正などは言語道断でアウト)。大学は、年に4回季節ごとに、市民との交流の機会を設け、中央政府だけでなく、地域コミュニティからも財政面を含めて支援される仕組みを築いていく。